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お酒のエピソードは面白い!ウイスキーや日本酒などこてっちゃんが気に入ったお酒の話を交えながら紹介していくブログです

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【日本酒】暗闇の中の希望の光!日高見【宮城・平孝酒造】

  今回紹介する日本酒日高見です。

 
 日高見は「魚でやるなら日高見だっちゃ」をテーマに造られているお酒で、魚介類との相性に定評のある日本酒です。
ちなみに、日高見読み方は「ひだかみ」ではなく「ひたかみ」なのでお間違いのないように。

 そして、日高見を造っている蔵元である平孝酒造さんの代表取締役である平井孝浩さんは、過去記事の屋守の生みの親である田中孝治さんを熱い気持ちで応援し続けた人物です。
そして熱いメッセージを送り続けた理由に納得してしまうエピソードがありました。
屋守の記事も読んでみると、より楽しめるエピソードなんで良かったら読んでみてください。

www.bar-kottechan.work

 

 

 

<日高見 誕生のエピソード>

熱い気持ちは、無気力・無力な自分に直面することから生まれる?

平井孝浩さんは、学生時代の自分のことをこう言います。
無気力・無関心・無感動な学生だった」と。
そして、いずれは蔵に戻るだろうという「なんとなくの気持ちのまま東京の会社に就職したのだそうです。周りには学生時代から頑張っている人ばかり。周りの人との実力の差が雲泥の差で、お前とは違うんだという現実を見せられているような気持ちにさえなっていたのだとか。

 

だったら俺がやってやる!

そんなこんなで、社会人生活2年目を経過したころに、平井さんの父親がやってきました。そして告げた言葉が「蔵を閉じる」だったのです。その頃には、家業を継ぐことを真剣に考え始めていた平井さん。突然のことに驚きました。そこで平井さんが返した言葉は

「なぜ急に辞めると言い出すんだ?親父にはできなくても、俺ならできるはずだ」と反発して。

「じゃあ、どんな方針で経営を立てなおすんだ?お前に何ができるんだ、できるわけないだろう」と親父から言われて、「だったら、俺がやってやる」と。

日高見」平孝酒造社長の平井孝浩さんインタビュー/酒造り体験レポート/社会って、そもそもなんだろう?|宮城の新聞から引用

このやり取りに対して平井さんは、「若気の至りでした」。といっています。
でも、社会人になって感じた会社の同期のやる気、社会の厳しさを蔵に戻って実践したかった、熱い思いから出た言葉なのでした。

 

直面する現実

当時は、まだ日本酒味を比べて楽しむなんて世の中ではなかったのだそうです。
そして、焼酎ブームの最中で、蔵の厳しさを目の当たりにするのです。
とはいえ、何もしないわけにはいきません。何の方針もない平井さんは、とにかくトラックにお酒を積んで酒屋さんを回っては、置いてくれるまで粘って耐えるのです。
そして思うのです。

「俺は、こんなことをするために東京から帰ってきたんじゃない。俺は何をしに帰ってきたんだよ?」

日高見」平孝酒造社長の平井孝浩さんインタビュー/酒造り体験レポート/社会って、そもそもなんだろう?|宮城の新聞から引用

廃業寸前に追い込まれる恐怖が常に襲い掛かります。
ただ、平井さんはあきらめません。
帰ってきた以上はやるんだ!とにかくこのままではだめだ。何をしたらいい?」と常に考え続けたのです。

 

支えたのは「宮城のお酒になりたい」という気持ち

それまで地元の石巻の市場で戦ってきた平井さんでしたが、このままではダメだという気持ちから、大都市圏から消費のアプローチをしていこうという作戦をたてます。ただ、それまでの主力商品であった「新関」という日本酒は、東京にいた時に周りに聞いても誰も知っている人がいなく、悔しい気持ちを味わってきた平井さんでした。
そこで新しい日本酒として、日高見を誕生させるのです。

 

<日高見はすぐに完成したわけではない>

酒質を鍛えていくことの大切さ

日高見を造ってからは様々なアプローチしていきます。
目を付けたのが酒屋さん主催の酒を楽しむ会でした。平井さんも日高見を持って参加します。ですが、中々美味しいと言ってもらえません。時には3000円の日高見に対して、「こっちのお酒は1000円でこんなにおいしいよ」と言われ、飲んでみると本当に美味しく、悔しい気持ちも味わいます。そして酒質鍛えていくしかないと思うのです。

 

自分の考えを伝えることができることの大切さ

そうやって10年間、コツコツと酒質を改善していき、明るい兆しが見えてきました。ただ、平井さんは大学は経済学部で、日本酒については全く勉強してこなかったので、お酒の説明が上手く言葉にできなかったのです。
杜氏さんから「このお酒はどうだ」と聞かれても「これではダメだ」としか言えず、どんなお酒が造りたいかも言葉になりません。どういうお酒を造りたいと説明するためにも、杜氏さんを飲食店に連れて行って、味わってもらって知ってもらうという手段でした。
そんな時に税務署から醸造研究所に行くことを勧められ勉強しに行くのです。そこで学んだことによって今までうまく説明できなかったことも説明できるようになり日高見は完成していくのです。そして、ここで屋守田中孝治さんと出会うのでした。

 

<日高見の由来>

平井さんは廃番商品を見ていた時に日高見という商品を見つけたのだそうです。「日を高く見る」その響きに良さを感じて、また地元の北上川が昔は日高見川という名称だったことから。また、日本書紀に土地沃壌えて広しと記された太陽の恵みを受ける日高見国と重ね合わせて、名付けられました。

 

<暗闇の中の希望の光>

2011年3月11日、東日本大震災がありました。
苦渋の思いで日本酒のタンクを放置したまま、浸水・余震におびえる日々を過ごした、平孝酒造の方々。
2週間後、ようやく電気が開通。それにより平井さんたちは、一部の天井や壁が落ち、立ち入れない部屋がある中で、祈るように日本酒を搾ったのです。
搾るのに適性の時期をとうに過ぎたそのお酒は、口にすると本来の日高見とは違う味わいにはなっていたものの、タイプの違う旨い日本酒になっていたのでした。
そのお酒を口にした平井さんたちは「暗闇の中に希望の光が差したような気がした」のだそうです。そして、その時に搾られたお酒に「日高見 希望の光」と名付けられて販売されたのです。それは震災が起きてからわずかの出来事でした。

 

こてっちゃんは東日本大震災のボランティアに何度か行ったことがあります。
震災直後に駅前で募金も募りました。
うちの父が震災時に宮城に単身赴任もしていました。
そんな中、2014年の3月11日に仕事を休んで石巻に行きました。
その時に、被災された方々と震災当時に避難した山に一緒に行かせてもらったのですが、当時の事を思い出して泣いている方々が沢山いたあの光景が今でも目に焼き付いています。

 

3年たっても、何年たってもつらいのですから、震災直後に日本酒を搾るその作業に、美味しい味わいになっていたその日本酒に、どれだけの希望を見出したことでしょうか。
その一度きりの日本酒はもう販売していませんが、このエピソードだけでも、こてっちゃんの心を揺さぶるのです。

 

現在、緊急事態宣言を解除したとはいえ、まだまだ、日常には戻っていません。
倒産した会社も多いと聞きます。
この希望の光のエピソードが少しでも皆さんの希望の光になることを祈りつつ、今回の記事を終えようと思います。

 

 この魚介類料理を食べる時は日高見と一緒に味わってみてはいかがでしょうか?
一筋の希望の光が見えてくるかもしれません。

 

参考サイト

日高見」平孝酒造社長の平井孝浩さんインタビュー/酒造り体験レポート/社会って、そもそもなんだろう?|宮城の新聞

 ・平孝酒造 - 宮城の蔵元一覧 - 宮城県酒造組合 公式サイト「宮城の酒」|宮城の日本酒・蔵元ガイド

 

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